ルドルフ・ディーゼル

1800年代には蒸気機関が交通手段として利用され馬車の代わって鉄道や船舶の動力源としてるようされるようになったが、蒸気機関は自動車に搭載するには大きく始動性の問題もあり小型の動力源である内燃機関の開発がされるようになった。

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蒸気機関は外燃機関とよばれ石炭で水を加熱しそれによって作りだされる蒸気の圧力をシリンダーに送り込みピストンを動かすため外燃機関と呼ばれる、それに対して内燃機関はシリンダー内で燃料を燃焼させその燃焼の圧力を直接ピストンに伝えて動力として取り出すことから内燃機関とよばれている。

最初の内燃機関の試みは1680年にホウヘンスがシリンダーに火薬を入れその爆発の圧力でピストンを押し下げる火薬の内燃機化が最初の試みになるが、火薬は爆発力が強くシリンダーそのものが火薬の爆発力で破損してしまうので燃料の選択に無理があったようで、内燃機関の燃料はガスやガソリンなどの液体燃料で開発されるようになる。

1838年にバーネット(William Barnett)がガスバーナーによる点火装置を備えた内燃機関を作り、その後ベンツが1886年に電池とコイルを使った電気点火装置を備えたガソリンエンジンを搭載した自動三輪車を開発しているが、内燃機関の点火装置は依然として内燃機関にとってやっかいものであった。

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ドイツ人(Rudolf・Diesel)ルドルフ・ディーゼルは製氷工場で蒸気機関の改良の過程で空気を極端に圧縮してその際に上昇する温度を利用してその中に燃料を噴射し自然点火させる圧縮着火の原理を考案しイギリスで特許を取得した。この点火方式を備えた内燃機関が出来れば、点火装置のやっかいな問題を解消することが出来ことになり、燃料も軽油以外に重油などの燃料を使うことが出来、燃焼効率もガソリンエンジンより良いなどの利点がある。

当時の技術では高圧縮に耐えるエンジンの開発は難しく1894年に最初の圧縮点火エンジンを制作したが不完全なのもであり、さらに改良を加えて1897年に実用可能なエンジンを完成し、1898年のミュンヘン万国博覧会に出品した。これ以来、圧縮点火方式のエンジンは発明者の名前をとってディーゼルエンジンと呼ばれている。

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ディーゼルエンジンは小型の自動車分野では振動、騒音、小型軽量化が難しいことから、船舶、発電機、鉄道、トラックなどの分野で発展していった。

当時はヨーロッパ各国にアメリカを加えて覇権を争う時代であり、それによる第一次世界大戦もあり、戦争兵器が発展していく時代でもあった。古代から続く、馬を使って突撃するような戦争の手法から動力を持つ兵器を使っての大量殺戮の時代になり、兵器開発に内燃機関が使われ軍事技術として発展していった時代でもあった。

ヨーロッパ各国による軍事技術の開発競争の中で、ディーゼルエンジンは特許料を支払えばその技術はどの国でも利用することが出来、当時緊張が高まっていたドイツ帝国と敵対するイギリスでもこの技術でディーゼルエンジンが製造されていた。

そのような中、ドイツ帝国海軍省はディーゼルに対し、彼の持つ特許の全てを国家に提供するように求めたが、偏った考えを嫌い、自分の発明が世界の利益となることとから、この威圧的な申し出を断った。当時はの戦争はまだ空での戦いはなく、陸と海での戦いであり、強大な大英帝国海軍に追いつくには、当時、発明されたばかりの潜水艦にドイツ海軍は注目した。

最初の潜水艦の動力源は蒸気機関でありその行動半径は小さく、その行動半径を飛躍的に向上させる可能性があるとしてディーゼルエンジンが注目されていた。イギリス海軍も同様に潜水艦の動力源に注目しているさなかにディーゼルはイギリスに自分の会社を設立していた。その後もディーゼルエンジンの改良は続けられ、小型軽量で潜水艦に最適な新型エンジンの特許を取得した。

1913年にイギリス海軍からイギリス政府は新型エンジンに大変興味があり、その件について話し合いをしたいとの手紙が送られてきた。ディーゼルはイギリスにある自分の会社へ出向く要件があったことからこの件を承諾した。

敵対する国であり緊張が高まっていていつ戦争になるかわからない国から軍事技術になる新型ディーゼルについて話し合いをしたいという申し出を公言することは通常ありえないことであり、政治に無頓着であった彼の言動や行動にドイツ政府は神経をとがらせていた。さらに彼は当時の緊張状態を全く理解せず、敵対国への軍事技術の提供だけではなく自分に対する威圧的な態度をとるドイツ政府への批判も公言していた。

そのような状況の中、運命の日がやってくることになる。1913年9月29日、ディーゼルはべルギーのアントワープからイギリスの東海岸のハリッジ生きの汽船ドレスデン号に同行者2人と3人で乗船した。29日夜に三人は夕と共にし10時頃別れた。翌朝、ボーイが彼の船室に行くとディーゼルの姿はなく、船内を探しても見当たらなかった。

ハリッジ港に着いたドレスデン号を警察が捜索したが失踪した手がかりは何一つ見つからなかった。それから2週間後にオランダのトロール漁船の網に遺体がかかった。所持品からルドルフ・ディーゼルと身元が確認され、後頭部を鈍器で殴られ海に投棄されたことが確認された。

状況から推察すると、同行者であるベルギー関連会社の役員カレルとドイツ人技師のルックマンがドイツ秘密警察の命によりディーゼルを殺害したということになるが、物的な証拠は何一つなく、状況証拠からの推察でしかなく、この二人が罪に問われることはなかった。

軍事技術の輸出には今でも厳しく制限がされていて過去には科学者の命が狙われるようなことはあったが、ルドルフ・ディーゼルはその最初の犠牲者であったのかもしれない........

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