フォルクスワーゲン

フォルクスワーゲン構想の始まりはヒトラーの一般庶民が買うことのできる大衆車の開発とアウトバーンの建設などの経済政策の中で考案されている。

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1934年 VWスケッチ

ヒトラーといえば悪名高き政治家であり、人類史に最大の汚点を刻んだといってもよい人物として評価されることがほとんどのようで、ユダヤ人の迫害や第2次世界大戦の引き金になった人物としても有名だが、合法的に首相に就任した後は全権委任法という法律を国会を通し、独裁政治を確立し経済政策を独断で推し進めることでヒトラーの奇跡といわれる経済再生を成し遂げている。

ドイツは第一次世界大戦の敗戦国であり、敗戦後は戦勝国から多額の保証金を課され、国土の一部も失ったことから経済は疲弊し、そこに追い打ちをかけるように1929年のウォール街の株の暴落から始まった世界恐慌がさらに追い打ちをかける、そのためヒトラーは経済の再生をし国民に豊かな暮らしを提供するために様々な経済政策を行っている中に国民車構想がある。

1933年のベルリン・モーターショーの開幕の演説で「自動車が一部の金持ち階級のものであり続ける限り、国民を貧富の二つの階級に分ける道具にしかならない…….国家を支えている国民のための車であってこそ文明の利器であり、すばらしい生活を約束してくれる、今こそ国民のための車を持つべきだ」とし国民(フォルクス)のための車(ワーゲン)の実現を演説している。

ヒトラーは国民車構想の設計製作をポルシェに依頼し、ポルシェ設計事務所は1934年の6月にドイツ帝国自動車産業連盟と契約した。国民大衆車に対するポルシェの基本構想は大型車のサイズを単に小型化、低価格化したものではなく、乗用車としての価値が現行の乗用車に劣るものではないことしての設計思想ではあり、ヒトラーの要求した1000マルク以下の生産費用を下回る1台あたり900マルクが契約書には盛り込まれていた。

ポルシェは自分の別荘で3台のプロトタイプ(WV3)を制作し、台あたり48000kmの試験走行し1935年のベルリン・モーターショーでヒトラーは大衆車の設計が完了したことをその演説のなかで述べている。その後30台のプロトタイプ(WV30)がダイムラーベンツ社で生産された。

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1936年WV30のテスト

1937年になるとWV30での試験走行が続けられ、中には10万km走行した車もあった。これと同時に展示デモ用の車も30台制作された。このころにはVWの量産をどの施設で行うかの課題があったが、ヒトラーは既存の自動車メーカーに委ねるつもりはなく、VW生産のための独立した会社がポルシェ博士の他により設立された。1938年になると最終プロトタイプ(VW38)が40台制作された。

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1939年 VWテスト

国民車の生産工場は北ドイツのミッテラント運河沿いのファーラースレーベンで1938年に工場の建設が始まり、車名はヒトラーにより、KDF(kraft durch freudeと名付けられた。これはドイツ労働戦線のスローガンである喜びを通じて力をの意味になる。

KDFの販売価格は990マルクであり4年間毎週6マルクを支払えば手に入るとされたが、実際には6マルクは労働者平均賃金の4分の一以上の負担であり、1939年のドイツのポーラーンド侵攻により、KDFは国民の手に1台も渡ることはなかった。

VWビートルがその地位を確保し、T型フォードの生産記録を破るのは第二次大戦後になる。



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