日本人が乗る「くるま」の始まり

現在では公共交通機関としてのバスや電車に加えて、自家用乗用車があたりまえの時代になっているが、旅客交通として「くるま」が利用されるようになったのは江戸時代末期のころからになる。

平安時代には貴族が利用した牛車はあったが、庶民が利用する車は江戸時代末期まではあまり利用されることはなかった。また荷物運搬用の馬車も特定に地域に限定して利用が許可されていた。

江戸時代末期になると商品の流通量が増加し既存の宿駅制度が破たんするようになり、従来の人手や馬の背で荷物を運ぶだけでは追いつかないようになり、効率の良い車輸送の要望が高まり、街道筋でも車の利用が許可されるようになった。

江戸時代末期の登場した人力車は大八車に乗客を乗せて人間で二人引く乗合の人力車で、明治初期には大八車の上に屋形をのせ、その上に布かござをかぶせたものが登場し乗合の人力車として旅客営業されるようになった。

人力車

江戸時代末期の乗合人力車

その後、様々な四輪の乗合の人力車が登場したが、大八車をベースとした乗合の人力車のため、引き手の人間を2、3人必要とし、動きも軽快ではないため、明治20年代には姿を消していった。

その後も人力車は存在することになるが、現在でも浅草の観光地などで見られる腰掛型の二輪の一人引きの人力車や乗合馬車、鉄道などにその座を奪われた。

人力車には二種類あり、一つは西欧から来た馬車をヒントにした現在でも残る腰掛型の一人引き二輪タイプと大八車を改造し、座布団を敷いて座る、数人乗りのタイプがある。

人力車

江戸時代末期の黒船来航により鎖国が解かれ、幕末の政治の混乱により人や物資の輸送量が急激に増えたことで、車の利用が人力車や西欧から伝来した馬車から始まり、現在の車社会の初まりとなった。

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