中島飛行機からスバルへ

第二次世界大戦中に多くの名戦闘機を生み出してきた中島飛行機は1945年の敗戦によって、それまで長年にわたって蓄積された高度な技術を無にすることになった。

1952年10月に富士精密、富士自動車工業、大宮富士工業によって試作されたスバル1500

第二次世界大戦中に中島飛行機により生み出された戦闘機には2式戦闘機「隼」、100式重爆「呑龍」、海軍夜間戦闘機「月光」、4式戦闘機「疾風」などがある。

敗戦と同時に占領軍により航空機の製造や研究さえも禁止されたため、中島飛行機は社名を富士産業へ変更し、飛行機以外の機械製品を製造することになった。

それにあわせて、中島飛行機の技術者たちも中島飛行機関連の工場、製作所でそれぞれ活躍することとなった。

太田製作所では自転車、リヤカー、小型モーターなどを、三鷹研究所では製粉機、理化学機械、木工水産用小型発動機、大宮製作所では自動車修理、自動車部品、小泉製作所伊勢崎第二工場ではバスボディの生産と中島飛行機の技術者はそれぞれの道を歩んでいった。

そうした状況の中で太田の技術者はアメリカ軍の落下傘部隊が使っていたスクーター(パウエル4サイクル単気筒)に目をつけ1946年に三鷹と太田でパウエルを参考にスクーター研究をはじめ半年後に試作車を完成させ、1967年にその名をラビットとして発売し、大きな反響を呼んだ。

1946年に完成したラビットS-1 始めの車輪は敗戦で不良在庫になっていた艦上攻撃機「銀河」の後ろの車輪が使われていた。

1950年8月中島飛行機から社名を変更した富士産業は財閥解体の対象になり、12の会社に分割され、太田と三鷹が合併し富士工業、伊勢崎は富士自動車工業、大宮は大宮富士工業、旧本社は東京富士産業にそれぞれ独立した。

その中で荻窪工場と浜松工場を引き継いだのが富士精密工業で、後にプリンス自動車となり、その後日産自動車に吸収合併されることになる。

財閥解体からまもなく、旧中島飛行機グループ間で再合同の動きがあり、1953年7月に東京富士産業、富士工業、富士自動車工業など5社が共同で航空機工業と自動車工業の育成を目的に富士重工業を設立させた。

1955年4月には富士重工業に出資した5社が富士重工業に吸収される形で5社が合併した。

各種発動機や自動車エンジンの技術をもつ旧中島飛行機の富士精密にも合併の話が持ち込まれたが、ブリジストンからの富士精密への資本参加や旧立川飛行機のプリンス自動車(「たま自動車」から後に社名をプリンス自動車に変更)との合併問題もあり、富士精密は旧中島飛行機グループとは別の道を歩むことになった。

🚙 中島飛行機スバル1500スバル360①スバル360②スバルR2スバル1000

 

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